自分に甘くてよいのだ。

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私はスヌーピーの名言である

「配られたカードで勝負するっきゃないのさ。それがどうゆう意味であれ。」

という言葉が1番好きである。この言葉はある種の諦めを教えてくれている気がする。

私は進学校に中高6年間通っていた故、頭脳や容姿、家柄など全てにおいて圧倒的に敵わない友人達ばかりであった。

特に大学受験期、劣等感はもう底知れなかった。指定校推薦で大学に入学した時、受験して入った同級生に対して申し訳ない気持ちにもなった。

当然就職活動でも自分の無能さは人事にしっかりと見抜かれ、苦い思いをした。

だがしかし私は自分のことが大好きであり、こんな自分をよく褒めている。

幼少期、私は言葉の成長スピードが遅く、軽度の知的障害という認知をされていた。自分でも幼稚園で会う同い年の誰よりも頭が弱いことは自覚しており、このまま成長しても一人前の大人にはなれないだろう…と未来を案じていた。

しかし、今自分はとりあえず社会人として一人暮らしをし、会社に勤めている。

幼稚園児の自分が今の自分を見たら感動して喜ぶだろう。幼少期の自分に会えたら、思ったよりちゃんと成長してるしそれなりに可愛くなれるから安心してねと伝えてハグをしてあげたい。

つまり何が言いたいかというと、幼児の頃の自分より成長した自分がいれば充分ではないか?という話である。

人それぞれ生まれ持ったスペックは違う。なんなら生まれ落ちた場所で決まる、人生はガチャである。キムタクの娘と私が平等とは言わせない。

配られたカードで人生を勝負していくしか道がないのなら、その持っているカードの中でどこまで成長出来たのか、自分の中で評価出来ればよいのだ。

持っていないカードは今世の間に徳を積み、来世貰えると信じよう。来世があると考えた方が気が楽なので、私は来世があると信じて生きている。

まとまりのない文章になったが、私はもはや配られたカードの雑魚さを楽しんで生きている。この雑魚カードでどれだけ今世を楽しめるかが肝なのである。